宿善開発(かいほつ)とは
『末代無智の御文』ー死を覚悟したひとりの武士に贈られた言葉ー
『疫癘(えきれい)の御文』
この御文(おふみ)は、1492年(延徳4、明応元)に書かれたものである。
この当時、日本は疫病で、沢山の人々が次々と亡くなっていた。そんな中、蓮如上人(1415~1499)は御門徒によばれ和歌山に行き、その帰りに法敬坊が輪番(住職代理)をしていた大阪の堺御坊に立ち寄った。
法敬坊はじめ、蓮如上人によって浄土真宗に帰依した人たちは、様々な思いでいた。周囲の人たちの思いに応えられないでいた。
そんなとき、蓮如上人が訪れるのである。
「私たちはどうすればいいのですか」
そんな思いで蓮如上人に、すがった。
それに応えた蓮如上人の教えの要旨を、法敬坊が縁ある人たちにも聞かせたいと、文章に残してくださるよう依頼した、それがこの御文である。(参考:『御文来意鈔』)
ー以下、「疫癘の御文」の本文ー
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし。このゆえに、阿弥陀如来のおおせられけるようは、「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくうべし」とおおせられたり。かかる時はいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、極楽に往生すべしとおもいとりて、一向一心に弥陀をとうときことと、うたがうこころつゆちりほどももつまじきことなり。かくのごとくこころえのうえには、ねてもさめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ともうすは、かようにやすくたすけまします、御ありがたさ、御うれしさを、もうす御礼のこころなり。これをすなわち仏恩報謝の念仏とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。
延徳四年六月 日
『疫癘の御文』が書かれた頃の中世
そう思っている人が大半を占めているように思う。
疫病終息を願う祈りが御所はじめ各所でなされ、さらに、改元が行われ「延徳」から「明応」に変わった。
そして、大坂・堺御坊(浄土真宗の寺院)周辺では「疫病にかかるのは、善人も悪人も関係ない。みな同じようにかかる」これは自業自得の道理から外れているから「非業」だ。これでは極楽浄土に生まれられないのではないか? ということが問題になっていた。
そこに、蓮如上人が訪れ、「そもそも人が死ぬのは疫病によってではない。生まれたから死ななければならないのは、決まったことである、、、そんな我々に対して阿弥陀如来は、善人も悪人も関係なく、我(阿弥陀)をたのむ者を必ず救うとおっしゃる」と説かれる。
蓮如が猶子となった「広橋兼郷」について
福井県あわら市吉崎では、毎年4月に京都東本願寺から「蓮如上人」の御影(ごえい・掛け軸の影像)を迎え「御忌法要」(ぎょきほうよう)を勤めている。
その蓮如について調べてみると、
蓮如[1] | |
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応永22年2月25日 - 明応8年3月25日 |
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幼名 | 布袋丸 |
法名 | 蓮如 |
院号 | 信證院 |
諱 | 兼壽 |
諡号 | 慧燈大師 |
尊称 | 蓮如上人 |
生地 | 京都・大谷本願寺 (現、知恩院塔頭 崇泰院) |
没地 | 京都・山科本願寺 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | (後の本願寺系諸派) |
寺院 | 吉崎御坊、山科本願寺、 大坂石山御坊(後の石山本願寺) |
著作 | 『御文』、『正信偈大意』 |
廟 | 蓮如上人廟所(京都市山科区)、 大谷祖廟 (真宗大谷派)他 |