『末代無智の御文』ー死を覚悟したひとりの武士に贈られた言葉ー

 「末代無智(まつだいむち)の御文(おふみ)」は、別名「放光(ほうこう)の御文」といわれている。『御文来意鈔』(釋慧忍師著)によると、蓮如上人が「死を覚悟したひとりの武士」に書かれた文章で、その来由には2説ありといわれている。ここではその1説を紹介する。
 
 仲の良かった幼なじみの2人、それぞれに細川勝元山名宗全の下で、敵味方と別れ戦う世の中となった。その1人、細川の配下となった山口俱教(とものり)は、事のついでに山科本願寺蓮如に対面し教えを乞うた。ここで、山口は「今この乱世合戦の時に我はいつ死ぬか分からぬ武士の身なれば、再び上人(蓮如)の教えをたまわることなど、かない難いこと。できることならば、1通の法語を書いてほしい。それを常に懐中し折々拝読したい」と願い出る。蓮如は快くその願いを受け入れ書かれたのが、この御文である。
 
 この山口と幼なじみで、山名宗全の家臣となった川辺信恒(のぶつね)は、この日、山口俱教を通りで見かけ、後を追ってきた。信恒はいう「今後は大きな合戦に及ぶとのうわさ。そのときには、お前と俺は敵味方で戦うことになるだろう。ならば周りの者たちが驚き、後世に語り継がれるほどの戦いをしようではないか。そして勝った方は隠居し、先立った友の菩提を訪うこととしよう」と。
 
 これに対し、山口は「俺はそれまで生きておれるか分からぬ。俺はいつ討ち死にしても仕方がないといつも覚悟している。しかし今日、不思議なご縁で山科上人(蓮如)の教えをお聞きし、未来に仏となることが決定した。もしも俺が死んだと聞いたときは、お前も山科上人の教えを受け、信心決定して、後から極楽浄土へ来いよ」と言った。
 
 この後、2人は出会うことなく9月1日、川辺信恒は、ふと東山の方を見る。そこには不思議な光明が見えた。信恒はひとり東山長楽寺の方へ行くと、山口俱教が数か所の傷を負い、そこで切腹して死んでいるのを見つけた。その前の木の枝には「お守り袋」がかけてあり、そこから大光明が放たれていたのであった。その袋の中を見ると、一通の御文が入っていた。山口が最期に拝見していたと見え、血まみれだ。それを拝読し信恒は涙した。「末代無智の・・・」念仏しながら、信恒は太刀で地中を深く掘り、山口の死骸を埋めた。
 
 2日後、信恒も合戦で深手を負った。信恒は思った「山口が勧めてくれたように山科上人(蓮如)の教えを聞いてみたいが、今となってはそれは無理だ・・」信恒はひそかに楠正成にたのみ、あの山口を埋めた場所に行って、念仏読経して1本の木に「俱教放光塚」と大きな字で書いて立てて来てほしいと。そして自分はもう助からないので、俱教と同じくここで切腹する。わが死骸をその放光塚にならべて埋めてくれと。
 そして、懐中の御文を差し出し「これは無上の宝典である。お前はこれをもって人々を救ってほしい。わが友・俱教もこれによって決定心を得て、浄土往生したのだ。」といい、信恒は西に向かって合掌し念仏を十遍となえた。それから笑みを浮かべながら腹を十文字にかき切ったのである。楠は驚きの中で信恒の死骸を埋めた。のちに、これが縁となり楠正成は蓮如上人の御弟子になるという。
 
 この御文は、楠圓爾と名乗った正成により後生に語り継がれ、聞いた者たちはみな不思議な御文だといい、それぞれに書写したという。そしてこの御文は「放光の御文」と呼ばれるようになったという。
 
 【原文】
 末代無智の、在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に、仏たすけたまえともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし。これすなわち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうえには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

『疫癘(えきれい)の御文』

この御文(おふみ)は、1492年(延徳4、明応元)に書かれたものである。
この当時、日本は疫病で、沢山の人々が次々と亡くなっていた。そんな中、蓮如上人(1415~1499)は御門徒によばれ和歌山に行き、その帰りに法敬坊が輪番(住職代理)をしていた大阪の堺御坊に立ち寄った。
法敬坊はじめ、蓮如上人によって浄土真宗に帰依した人たちは、様々な思いでいた。周囲の人たちの思いに応えられないでいた。
そんなとき、蓮如上人が訪れるのである。
「私たちはどうすればいいのですか」
そんな思いで蓮如上人に、すがった。
それに応えた蓮如上人の教えの要旨を、法敬坊が縁ある人たちにも聞かせたいと、文章に残してくださるよう依頼した、それがこの御文である。(参考:『御文来意鈔』)
ー以下、「疫癘の御文」の本文ー
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。しかれども、いまの時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきようにみなひとおもえり。これまことに道理ぞかし。このゆえに、阿弥陀如来のおおせられけるようは、「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくうべし」とおおせられたり。かかる時はいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、極楽に往生すべしとおもいとりて、一向一心に弥陀をとうときことと、うたがうこころつゆちりほどももつまじきことなり。かくのごとくこころえのうえには、ねてもさめても、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ともうすは、かようにやすくたすけまします、御ありがたさ、御うれしさを、もうす御礼のこころなり。これをすなわち仏恩報謝の念仏とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。
延徳四年六月 日

『疫癘の御文』が書かれた頃の中世

 
 
 
現在、私の周囲には死後のことを問題する人は、ほとんどいない。
「死は生の終わり。できるだけ長生きをして、楽しまなければ生きている意味がない、、、」
そう思っている人が大半を占めているように思う。
 
試しに、我が息子(次男)に新型コロナウイルスに感染したらどうする?と聞いてみたら、
「それは仕方ない。かかったら、かかったとき。浄土真宗は死後の問題。生きている間のことは人間の力でどうにかせなあかん」と返ってきた。正直ビックリする返事だった。
 
ちょうど新コロナウイルス感染症が拡大していく中、浄土真宗の僧侶たちは『疫癘(えきれい)の御文(おふみ)』をとりあげ、浄土真宗の立場を宣伝していた時季であった。
 
そこで、私はこの『疫癘の御文』について調べてみた。
まず、蓮如上人によってこの『御文』が書かれた延徳4年(1492年)、世間ではどんなことが行われ、何が問題になっていたのか?『御文来意鈔』(おふみらいいしょう)によれば、

疫病終息を願う祈りが御所はじめ各所でなされ、さらに、改元が行われ「延徳」から「明応」に変わった。
そして、大坂・堺御坊(浄土真宗の寺院)周辺では「疫病にかかるのは、善人も悪人も関係ない。みな同じようにかかる」これは自業自得の道理から外れているから「非業」だ。これでは極楽浄土に生まれられないのではないか? ということが問題になっていた。

そこに、蓮如上人が訪れ、「そもそも人が死ぬのは疫病によってではない。生まれたから死ななければならないのは、決まったことである、、、そんな我々に対して阿弥陀如来は、善人も悪人も関係なく、我(阿弥陀)をたのむ者を必ず救うとおっしゃる」と説かれる。
 
死後を問題としない我々に、この御文の「精神」に触れることができるだろうか?

蓮如が猶子となった「広橋兼郷」について

福井県あわら市吉崎では、毎年4月に京都東本願寺から「蓮如上人」の御影(ごえい・掛け軸の影像)を迎え「御忌法要」(ぎょきほうよう)を勤めている。

その蓮如について調べてみると、

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 
 

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蓮如[1]

応永22年2月25日 - 明応8年3月25日
1415年4月13日 - 1499年5月14日
1415年4月4日 - 1499年5月5日

上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[2]下段・ユリウス暦
Rennyo5.1.JPG
蓮如影像(室町時代作)
幼名 布袋丸
法名 蓮如
院号 信證院
兼壽
諡号 慧燈大師
尊称 蓮如上人
生地 京都大谷本願寺
(現、知恩院塔頭 崇泰院)
没地 京都山科本願寺
宗旨 浄土真宗
宗派 (後の本願寺諸派
寺院 吉崎御坊山科本願寺
大坂石山御坊(後の石山本願寺)
著作 御文』、『正信偈大意』
蓮如上人廟所(京都市山科区)、
大谷祖廟 (真宗大谷派)他
蓮如(れんにょ)は、室町時代浄土真宗浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首大谷本願寺住職。は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都本願寺中興の祖。同宗旨[3]では、蓮如上人と尊称される。1882年明治15年)に、明治天皇より慧燈大師諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「」と 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「如」と表記するのが正式である[4] 。父は第7世存如公家広橋兼郷猶子。第9世実如は5男。
 
とあり、この公家の広橋兼郷について興味がわいたので、これまた調べてみると、以下のはてなブログ後花園天皇をめぐる人々ー広橋兼郷)にであった。


後花園天皇をめぐる人々ー広橋兼郷 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座